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私は私と、はぐれる訳にはいかない。

自分を嫌いになるというのは、どういうことなんだろう。自分に満足いかないから、というのが一番の理由であると思う。満ちる事が無くとも、足りる事はある。必要条件、といわれるものである。人の生活は、必要条件がクリアされていれば問題は無いのだろうか。

おそらく、人は余剰を求めるものであろう。余りを大切にするのであろう。欲しいものが、満ちて欲しいと願うのではない。欲しいものが、あふれて欲しいと願うのである。 飢えや渇きが満たされると、蓄えたくなるのだろう。常に満ちていて欲しいと思うのである。常に、あふれて欲しいと願うのである。

幸せというものは、人によって定義が違う。多くの人が求めるのは、幸せである。それは、満ち足りて、有り余るほどに自らに降り注ぐ幸運かもしれない。願い続けてきた事が叶ったときの、想いの昇華かもしれない。不意に訪れる、笑顔かもしれない。

人の心を支えるものは、大きなものか、小さなものか。支えが大きければ、人は立ち続けて居れるのか。支えが強ければ、人は倒れる事をしないで済むのか。

ほんの些細なことで支えられている人だっている。誰にも奪えない支えを持っているなら、どんな出来事にも耐えうるだろう。 逆に、とても大きな支えだけど、誰かに容易く奪われるかもしれない支えなら、その出来事一つで折れてしまうかもしれない。

「強い」ことは、揺るがないこととイコールではない。同様に、「弱い」ことは、折れやすいことではない。旅客機の翼は、飛行中良くしなる。あれは、意図的にしならせている。そうすることにより、飛行中の荷重を減衰している。あの翼が全くしならない硬いものであったなら、簡単に翼は折れてしまう。

人の心は、翼ではない。でも、頑なに目指すものがあった人から目標を取り除いたら、何が残るだろうか。平然として居られるだろうか。

明けない夜は、無い。でも、終わらない昼も、無い。陽が照ることで見えるものがあって、陽が隠れることで見えるものがあって。物事には、良いことと悪いことが常に付きまとう。 良いことだけを望んだところで、その望みが叶ったとして、見える景色なんて望んだものだけ。

 寒さに震える夜があっていい。無力さに打ちひしがれる瞬間があっていい。歩き疲れたとき、膝を止めて俯いていい。陽の光の下で笑い合う瞬間があっていい。空を見上げて、憧れを抱くときがあっていい。孤独で居ることを嫌がっていい。多くの人に囲まれることを疎ましがっていい。

人は皆、何か起こっても、何も起こらなくても、何か考えているものなのだから。感情があるとは、そういうことだ。何も考えていない瞬間というのは、意識的には存在しても無意識的には存在しない。何も考えなくても、呼吸をするし、鼓動は止まないし、血は流れる。 同じように心も無意識に動いているのだ。

さて、「自己嫌悪」だが、心の無意識の中にはあまり存在しないものだと感じている。自己嫌悪は、自分について考えること、自分と誰かを比較することによって認識されるものであると考えるからである。無意識の心は、自分について考えているわけではない。目の前で起こる事象に対して様々な方向に振れるものだと思う。もちろん人によって様々だろうが、少なくとも私にとって、それは意識による自己比較とも言うべき現象なのである。比較対象は、他人であり、私の理想とする私である。ちょっと考えてみれば分かることだが、他人よりも自分の理想たる自分を比較対象にすることは、自己嫌悪を抑制することには繋がらない。むしろ逆効果である。現在実現できていないから理想なのだ。敵うハズないのである。

理想の自分を比較対象にすることなかれ。比較対象にするなら、他人にした方がよい。といいつつ、「他人と比較する自分が嫌いだ」とか考え始めるあたり、人の心は実に面倒くさい。しかしこの面倒くさいものが幸せという感情を生み出してくれる事実により、日々を送ることがそれ程苦ではないのかもしれない。

結局、自問自答と雑多な思考の入り乱れた結果、「人は我儘である。だから、我儘な自分を受け入れて、うまく抑制しつつ付き合い続けること」を自分に言い聞かせる自己啓発のようなもので終わることが、私の思考実験の限界のようである。

(via zigzag-311)
忘れていたコト

忘れていた事を思い出した。

人は長い間忘れたふりをしていると、ホントにその事を忘れてしまうらしい。

思い出したのは、自分の心の奥の奥、今まで自分を突き動かしてきた原動力。

久しぶりに、心の奥底でエンジンがかかっている。

昔はかかりっぱなしだったエンジンは、最近は錆び付いたのか、物置のどっかにしまわれていた。

いつからだろう?自分に愛想を付かしたのは。

いつからだろう?諦める事が当然になったのは。

いつからだろう?恥をかくことを極度に恐れるようになったのは。

自分の思いに、もう少し正直になろう。

くすぶっていた火種を、もっと燃やしてみよう。

膝を折ることになるかもしれなくて、意志を曲げることになるかもしれなくて、それでも。

いずれは時間が来る。望む望まぬに関わらず、期限は来る。

気付いた時が間に合ってて、よかった。

気付かないうちに捨ててなくて、よかった。

さあ、歩こう。

「メロディなきメロディを奏で 道なき道へ行こう

そこに俺にとって一番の 金ピカがあるのだ」  宇宙兄弟1巻より

 今日は月が綺麗。

覆い隠す雲が居なくなって、 冷たい空気が澄んでる。

ずっと見ていたいけど、とても寒くて。

 昔から、月は文化の中に在った。

 うたの中での月は、美しさを謳われ、冷たさを詠われ、暖かさを詠われる。

あるひとは、月の美しさに惹かれて、

あるひとは、月の冷たさ、暖かさに自分の心を重ね合わせて、

あるひとは、月の無神経さに不快を感じて。

物言わぬ月に、羨望を、同情を、残酷を感じる。

等しく月を見上げているのに。

 人は、目で見て、頭で考えて、初めてモノを認識するのだ。

旅道具の整理は難しい

人は成長するに従って、多くのものを落としていく。

死ぬまでずっと持ち続けているものは、そう多くはない気がする。

生きている間に、アポトーシスなどにより細胞が死に、新たな細胞に入れ替わる。

体細胞ですら、生きている間中入れ替わりを続けている。

生きている時間の中で、何を持って旅をすればいいのだろう。

皆、限られた時間のうちで、進む方針を決めなきゃならない。

最初のうちは、方針が曖昧でも何とかなる。道が太いので、フラフラ歩いても歩いてゆける。

しかし、時が進むにつれて道が細くなり、違う道に移るために超えるべき壁が高くなる。

大人になり、出来る事が増えるにつれ、出来ないことが増える。

感情を偽ることを覚え、本音を求めるようになる。

多くの選択肢の中から、取捨選択を続けていく。

そう考えると、ずっと持っているものはあまりに少ない。

今はまだ、旅の持ち物は考えてみてもよく分からない。

なので、せめて取捨選択について考える。

今までの時間と可能性を切り売りして、今の自分がいる。

引き換えにした時間と可能性を取り戻す事は、2度と出来ない。

どんなに望んでも、その瞬間に戻る事はできない。

可能性は、ある瞬間までしか持ち越す事はできず、尊いものであるけれど、全てではない。

偶然により失った可能性ならまだしも、自分から捨てた可能性を嘆くことはしない方がよい。

その選択肢を選ばなければ得られなかったモノがあるはずなのだ。

選択する事は大事だけど、自分の行った選択を信じる事はもっと大事だと思う。

だからどうか、祈りや願いが叶わなくても、努力や行動が報われなくても、悔いる事が無いように。

環境が恵まれない事を嘆くより、それを自分の望む方向へ変化させようと動いたほうがよい。

 もちろん、たまには愚痴ったっていい。膝を折って休んだっていい。

願いや想いなんて叶わない事の方が多いのだから。

その後に、ちゃんと立ち上がれるようにしよう。

いつ終わりが来るかなんて誰も知らない。でもいつか終わりが来る事を皆知ってる。

出来れば転んでも俯かないで必死で上を向き続けているほうが、よさそうだ。

昔からよくある例え話。

生きている時間を、道に例えてみる。

車や人が道を行くとき、真っ暗闇で見えないと大抵躓いたり事故を起こしたりする。

人生はこれに似ている。 未来で何が待っているか分からず歩く。だから転ぶ。事故を起こしたりする。

生きていく中で、転んだり事故を起こすのは必然なのだ。

暗闇の中で分かるのはせいぜい方角だけ。人によっては、その方角さえも見失う。道に迷う。

道を行くとき、最初から険しい道だと知っていて、その先へ行こうとする人は少ない。

  近道を知らず、回り道することだって多々ある。

知っているからこそ、選ばない選択肢は沢山ある。

かといって、知らないからこそ選べる選択肢もある。

無知ゆえの無謀で、初めて超えられる山だってある。

道半ばで息絶える人もいる。

道を歩く事を止め、その場で座り込む人もいる。

道の先で、誰かと何処かで交差しているかもしれない。

誰かの道を奪い、その道に居座る事もあるかもしれない。

誰かに道を譲り、その道を諦めることもあるかもしれない。

歩いていくにつれて、色々なものを落とすかもしれない。

それとは逆に、様々なものを拾うかもしれない。

皆、思い思いにこの道を行くのである。

  よく、「未来がわかったらなぁ」ということを聞く。

自分は、道の先がわからなくて幸せだと思う。

道の先がわかっていたら、この人生を歩く人は少ないだろう。

自分の出会う人も、もっと少なかったかもしれない。

今の道を選ぶ事もなかったかもしれない。

後悔しなくて済んだかもしれない。

でも、そんな人生、つまんないでしょ?

zigzag-311:

気を落とすなよ…

zigzag-311:

気を落とすなよ…

意思は柱のようなモノ

挫折の1度や2度、誰でも経験することだろう。

かく言う自分、大学を1浪1留である。浪人よりも留年の方が辛かった。

本当に、死んでしまおうと思った。

結局死に切れず戻ってきて、偶々友人たちに捕捉され、生きていることにした。

今では感謝している。

もののけ姫の中で、「生きることは、真に苦しく辛い」という台詞があった。

心が挫けて折れてしまうほどの不幸や苦痛は、人生でどれ程あるのだろう。

降りかかるそれらに抗うコトで、一体何が得られるんだろう。

もういいだろうと思うことも、沢山ある。自分を無価値だと思ったことだって、何度もある。

以前はそう思っていた。無価値だ、どうして自分なんているんだ、と。

でも、変わった。

そもそも、自分の価値は自分で決めるのではない。

自分で決めるのは意思や意志であり、自分の価値は他人が決める。

「価値が無いから生きててもしょうがない」のではない。

「生きるという自分の決める意思に他人の評価を挟む必要が無い」と思うようになったのである。

生きるようとする意思まで他人に預ける必要はない。それは自分で背負えばいい。

逃避としての死も、必要あるのだろうか。死ぬ気があるなら、今の自分という存在を殺す気があるなら、どこまでも逃げればいい。その気になれば行方をくらますことぐらい容易いだろう。

結局、自分の意思、意志が完全に折れるかどうかなのかな。

負けて、折れて、挫けて。

立ち上がることをやめたくなって。

それでもなお、生きる。

その想いさえあれば、時には幸運に巡り会えるかもしれない。

流れる時間の中で、不変なモノなどそう多くは無いのだから。

人が歩くと?

「犬も歩けば棒にあたる」という諺がある。

何か行動を起こすと何かしらの経験を得ることが出来る、というような意味と思っていた。

実際俗用としてはそのような意味が広まっている。

しかし、原義においては違うらしい。

「犬がふらふら出歩くと、棒で殴られるような災難にあったりする。じっとしてればいいのに、余計な行動を起こすべきではない」という意味であるとのこと。

随分ネガティブな考えである。余計なことすると痛い目見るぞ、ということか。

でもこの話、歩くものが犬から人に変わると、少し捉え方を変えることが出来る気がする。

歩いていたのが人だとして考える。

人にとっては「災難」は、ある種の「経験」である。

それは苦痛を伴う経験であり、それゆえ強烈に残ることがある。

もしかしたら、そこから学び取るものがあるかもしれない。

そう思うと、人は歩きに出るべきなんだろうか。経験するために、学ぶために、歩くべきなんだろうか。

ここでふと気付いた。

この諺は、少なくとも字面では歩けとは言っていない。

歩いたらこうなるといってるだけで、歩け、とも歩くな、とも言っていないのである。

だから、自分は、こう解釈しようと思う。

「動き出せば、良くも悪くも何かにぶつかる。動かなければ、何にも起こらない。痛みを伴うことが嫌なら、留まることを選べばいい。苦痛を伴うかもしれないが、それでもなお何かを望むなら、歩くことを選べばいい。好きな方を選びなさい」

勝手な解釈であるのは重々承知である。でもこの解釈、自分の中ではスッキリした答えになったような気もする。

ちなみに自分は、それでも歩こうと思った。

雑思。

今日、買い物行くときに歩いてたらすごくいいな~と思う場所があった。

その時は、「買い物終わって落ち着いたら写真撮ろう」と思って通り過ぎた。

数時間後、写真を撮ろうと思い、同じ場所を訪れてみた。

同じ構図に立った。

見えるものは同じ。

角度も同じ。

明るさ、人通りも何も変わらない。

でも、それなのに、

不思議なことに違う。

あの一瞬、美しいと思い、写真に切り取りたいと思った瞬間とは違ってしまっている。

自分が美しいと思ったのは、あの時間の場所。

その時間を逃してしまった。

写真に限らず、その時間においてのみ、美しさを放つものは沢山ある気がする。

音楽だって、響く瞬間がある。

私たちは、感覚器官を通して色々なモノを感じる。

クオリアと呼ばれる概念が存在したとして、

それがあったとしても、最終的に感じられるのは自分の感覚を通してる。

フィルターを通してしか、世界を感じられないのかもしれない。

遷り変わる感覚と、流れ行く時間と、それらがかみ合ったときに感動を覚えるんだろう。

でも、時間に関わらず人の心を揺さぶるモノもある。

それらは、その内奥に何を持っているんだろう。

流れ続ける時間の中で、変わり続ける環境の中で、不変な何かでも隠しているんだろうか。